2013年12月25日水曜日

「イエスの生涯」を読みながら


クリスマスが近いある日、次の仕事まで時間が余っていたためになんとなく寄ったシドニー市内にある「ほんだらけ」という日本の古本屋さんで、「イエスの生涯」という本に出会った。イエス・キリストの生涯に関して今まで本(新約聖書を含む)を読んだり映画で観たりして粗筋は分かっていたのだが、なにか信者としてではなく、歴史書として、哲学書として読んでみたいという気持ちがありそういう本を探していた。

 

著者の故遠藤周作さんはクリスチャンで、そういう意味では信者が書いた宗教書なのかも知れない。しかし生前の彼の他の作品を読んだことのある私としては、きっと聖書のような宗教書ではなく、彼なりのウィットにとんだ人間臭い物語だろうと想像して本を買った。そして読むにつれて、この本はキリスト教を宣伝する本ではなく、遠藤氏の真実を知りたいという気持ちが込められた歴史書だということがひしひしと伝わってきた。まだ本の半分程しか読んでいないが、自分の感動を忘れないうちに書きとめたいという気持ちがこれを書かせている。

 

まず文章で気付いたのであるが、遠藤氏はクリスチャンなので、イエスのことを書くときは敬語を使っている。それが読み物として読んでいる私としてはなにか偏った文章に思え気持ちがよくない。つまり私としては新聞の記事のように自分とイエスとの関係を突き放して客観的に淡々と書いてほしかった。ただ不思議なことにイエスのことはイエス様とは書かずここはイエスと書いている。まあこれから語ることに比べればこのことはつまらぬことで、落語の枕みたいなものであるが。

 

イエスには、御存じのように有名な弟子が十二人おり、それ以外にもたくさんの弟子、民衆が彼を取り巻いていたのであるが、その誰もがイエスを正しく理解しておらず、イエスは孤独であったと書いている。弟子を含めすべての民衆はイエスをユダヤ王国復活の革命リーダーというようにみており、彼を中心に革命軍を作ろうと考えていた。ところが、イエスには全くその気はなく、彼の頭の中にはただ一つの教え、「神の愛」しかなかった。

 

「幸いなるかな 心貧しき人 天国は彼等のものなればなり ・・・

 幸いなるかな 泣く人 彼等は慰めらるべければなり ・・・」

有名な山上の説教であるが、今でこそこの言葉で感動する人は多いが、この言葉を初めて弟子や民衆に語った時、みんな失望し、イエスをバカにする者まで現われたらしい。つまりこのようなひ弱な言葉で、ローマとの戦いを避ける情けない人と映ったらしい。要するに神の愛というのは民衆にとって言葉だけの世界で、ローマによって迫害、苦しめられている現実を何ら変えるものではなく、弱虫の泣き言のように受け取られた。それは長年連れ添ってきた弟子たちも同じで、つまり誰ひとりとしてイエスの説く神の愛を理解した者はいなかったという。

 

遠藤氏は、聖書に書かれている「奇蹟」に関しても、そんなものはなかったと言いきっている。つまり、眼の見えない人の眼を開けたり、唖がしゃべれるようになったり、歩けなかった人がいきなり歩いたり、病気が治ったり、水の上を歩いたりという「奇蹟」はどこの宗教にも付きもので、この超能力や現実的なご利益で信者になる人がかなりいる。民衆はイエスにそれを期待したが、イエスはそれに対してなにもしなかったと言っている。よし偶然イエスが触れたためになにか奇蹟が起こったとしてもそれは偶然で、イエスが行おうとしていたプログラムや行動とはなんの関係もなかった。

 

病気を治してほしい、治せたら信じてやる。迫害されている人が真っ先に考えるのは迫害している人をやっつけてほしい。民衆とはつまりそんなものである。なぜその人たちは迫害するのかとか、迫害する人たちも含めて人類全体としての問題にまで掘り下げる人はまずいない。

 

イエスは、自分はたった一つのことのためにこの世に使わされてきたと信じていた。それは神の愛を伝えること。それまでの罰や災難を与える恐ろしい神のイメージから、愛のイメージへの転換。どんな人にも、そして恵まれない人には特に暖かく手を差し伸べる神の愛を説いた。ところがその神の愛たるや「奇蹟」を願う民衆には受けがよくなく、ただ手を握って哀しみを共有するというものでは民衆は納得しなかったようだ。そしてひ弱で実行力のないイエスを見て、自分たちのイメージと違っていたことで失望した民衆は、今度は逆にイエスを非難し、詐欺師呼ばわりするようになる。

 

イエスの伝えたかった神の愛は、民衆どころか弟子たちの誰にも実際には理解されず、ゴルゴダの丘で十字架にかけられて処刑される場面でも、有名なイスカリヨテのユダだけでなく、すべての弟子に逃げられ、イエスはみじめで孤独な状態で死ぬ。つまりここまでの物語で言うと、The Endで終わってしまう悲劇なのだ。ところが、御存じのようにその後弟子たちが再び集まり、原始キリスト教団を結成することになる。再び集まった弟子たちは、イエスの生前とは180度違った人格に変わっている。つまり、疑うことなく神の愛を異教徒たちに伝えるために旅をして、ペテロのように何人かは殉教することになる。

 

遠藤氏によるとこのことが、キリスト教最大の謎とのことだ。つまり、イエスの生前には革命軍の司令官としかイエスを見ていなかった弟子たちが、そして彼の処刑と共に彼を裏切り四散してしまった弟子たちが、イエスの死を境に死をも恐れぬくらいの神の愛の伝道者になり、世界中に神の愛を伝えたという事実だ。何が弟子たちをそうさせたのか?このことを「復活」と絡めて説明する学者もいるらしいが、遠藤氏はイエスの「復活」について聖書通りには受け取っていない。三日後にイエスが復活したというのはどうみても作り話に違いないが、それでもそう後世に伝えたくなった大事件があったのではないかと推測している。実はまだその先を読んでいないのでその大事件を遠藤氏が想像しているのかどうかもわからない。

 

丁度いいではないか、この謎を自分なりに考えてみたいとおもう。あなたならどう思いますか?

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