2014年10月11日土曜日

私とは何者なのか?(最新の脳科学理論による) その2


本文はその2です。その1を読まれていない方は、次のその1からお読みください。

 
情報とは

意識、無意識の話を先にすすめる前に、情報という言葉について説明する必要がある。情報という言葉は今や当たり前に世の中で使われているが、情報に関係する用語、取り分けビットという情報量単位を初めて考案したのは、アメリカの電気工学、数学者であるクロード・シャノンである。1ビットが情報の最小単位であるというのはおそらくご存知であろうが、このビットという単位はコンピュータだけで使われているのではない、意識、無意識に関しても、脳科学でも、心理学でもビットという単位がよく使われる。例えば、人間の無意識の情報量は毎秒11,000,000ビット以上であるのに対し、毎秒50ビットくらいしか意識は上らないというような研究結果がある。また毎秒10ビット前後だという学者もおり、学説にかなり差がある。

そもそも意識という人の主観に関する情報をどのようにして計測して、インターネットと同じ速度基準のビットに当てはめるのか?そのあたりのことが私はまだ分かっていない。(分かっている人がいたら教えてほしい) たとえば、私が映画を観ているとき、音楽を聞いているとき、本を読んでいるときの毎秒のビット数はどのようにして計るのだろう?

このようにクロード・シャノンによる情報理論は、現在では機械だけではなく、生物や人の心までを計る理論になっている。

 

人類が意識を持ったのはほんの三千年前

人類が意識を持ったのがわずか三千年前であったと言ったのは、アメリカ、プリンストン大学のジュリアン・ジェインズである。1976年の彼の著書である「神々の沈黙」の中でそのように語っている。いきなりそんなこと言われてもなんのことかピンとこなかった方もいるであろう。もう一度いうと三千年までは、誰も意識がなかった。しつこいようだが、気絶していたという意味ではなく、みんな無意識で行動していたということなのだ。ある学者によるとその状態は統合失調症の症状と似ているという。
 
ジェインズによると、人類は紀元前七万年ころに言語を持ち始め、紀元前八千年ころにはおよそ現在のような言語体系が出来ていたという。そして言葉の発達によって、人間の右脳と左脳で差ができてしまった。言語活動を司る左脳は右脳に比べて大きくなり、バランスが崩れ、そしておかしなことが起こった。二分脳と言って、まるで同じ人間の中に二人の人間がいるような感じになった。一人はイメージや音楽などを中心にものを理解する昔からある右脳、もう一人は言葉を使って理解しようとする新しい左脳。最初はこの右脳と左脳のコニュニケーションがうまくとれていなかったみたいで幻聴が聞こえたらしい。つまり左脳は右脳から伝わってくる情報を実際の音として聞いて、それを神様の声だと思ったようだ。
 
誰か分からないけど自分にわからないことをいろいろ教えてくれる人がいて、本当は右脳が教えているのであるが、左脳はそれが誰だかわからないので神様という名前を付けた。一万年くらい前の人たちは、完全な無意識状態から一歩進化して、右脳の神様の声を左脳が聞いて、その声に従って行動していたらしい。しかし三千年前になると、右脳と左脳のコニュニケーションがよくなってきて、二人いた自分が一人に統一されるようになってきた。神様の声も聞こえなくなって、その時に今のような意識が誕生したと言われている。もちろん民族や地域、個人個人で差があり、先に意識を持つようになった人たちから順番に今のような文明を築きはじめた。つまり文明というのは意識のたまものなのだ。
 
しかし意識に芽生えたといっても最初は未発達で三、四歳の子供のようなものだったので多くの人はかえってもっと不安になった。昔は、右脳の神様の声に従っているだけでよかったのに今は、頼りない意識を持った自分が自身でいろいろ判断しないといけなくなった。神様の声が聞こえなくなった人たちは、どうしていいかわからない頼りない自分が不安で不安で、結局神様の声がまだ聞こえている人を探してその人の言うことを聞くことにしたようだ。それがシャーマンと言われた人たち、旧約聖書に出てくるモーゼ等の予言者などだ。この人たちは進化的には遅れていて、神の声、実際には自分の右脳からくる情報がまだ聞こえていた。
 

意識をベースにしたキリスト教


そしてキリストの登場になる。意識と無意識の歴史においてキリスト教は大きな分岐点を残している。それまでの宗教は、飼い主がペットを叱るように、無意識な人たちに対して神が罰を与える宗教であった。それに対しキリストは、人間の意識そのものを改革しようとした。繰り返しになるが、モーゼの十戒に代表されるようにユダヤ教では、人間の行動に対して神が罰を与えることで、人間の行動の規範とした。裏返せば実際に悪いことをしなければ、心で何を思っていても構わないということになる。それに対しキリストは山上の教えにもあるように、実際の行動だけでなく、心で悪いことを考えることも戒めた。正に意識をベースにした宗教の誕生である。

 さてここからが私の想像である。故遠藤周作さんが言われた原始キリスト教最大の謎、キリストの復活である。ここではキリストが生まれ変わったという意味ではない。全ての弟子たちに裏切られ、四散してしまい、孤独のうちで処刑されたキリストの死後、なぜか弟子たちが再び集まり原始キリスト教団を結成する。再び集まった弟子たちは、イエスの生前とは180°違った人格に変わっており、つまり、迷うことなく神の愛を異教徒たちに伝えるために旅をして、ペテロのように1人を除いて全員が殉教する。これがキリスト教最大の謎なのだ。

なぜ弟子たちはあんなに臆病だったのに、キリストの死後急に勇敢になったのか。それは、おそらくキリストをモーゼの様に考えて彼の言葉を神の言葉のように聞いていた弟子たちが、キリストが死ぬことによって急に意識のスイッチが入ったのではないだろうか。さあどうだろう。
 
もうひとつ大胆な想像だが、失楽園にあるように原罪といわれる人類が背負ったものは、この意識と無意識の変化の過程から生まれたのではないかというはどうであろう。
 
つづく

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