2014年10月6日月曜日

私とは何者なのか?(最新の脳科学理論による) その1


意識と無意識

まず大前提として意識と無意識というのがある。子供に説明するように言えば、意識は起きている状態、無意識は寝ている状態といえる。しかし実際はそんな単純なものではない。普段は心臓の鼓動や呼吸は意識していないので、これらの働きに関しては無意識と言える。ところが何か危険なことがあったり、驚いたりしたときは自分の心臓の鼓動を感じ、息が荒くなっているのを感じる。これは意識していると言える。ただ心臓の鼓動は意識でコントロールするのがむつかしく、速くなった鼓動を落ち着かせるのは、自分が直接心臓に命令できないので、なにか別の方法、たとえば危険ではないと自分に言い聞かせたり、いろんな方法で落ち着かせることによって心臓の高鳴りを抑える。あたかも自分と自分の心臓は異なった生き物のように。

車を運転しているときもどこまで意識を働かせているのか疑問である。ハンドルを切ったりブレーキを踏んでいるのは意識と無意識のどちらかと問われれば、さあどちらなのであろう。ほとんど自分の運転を覚えていないところをみると無意識のように思えるが、目はちゃんと前から来る車や、横切ろうとする人や信号や道路のカーブをみているので、全く無意識ではないであろう。さらに運転しながら音楽を聞いていたり、他のことを考えていたりしているときはどうなのだろう?

こうしてみると、最初に述べたところの意識は起きている状態で、無意識は寝ている状態というのも怪しくなってきた。起きている状態でもぼやっとしていたり、逆にサッカーの試合をしている時のように、頭で判断していては遅いような場面では無意識で動いていることが多い。寝ている状態でも夢を見ているのは、これは意識があるというのかどうか。もうひとつ言うなら死んだ状態は無意識と言えるのだろうか、それとも意識、無意識とは別のカテゴリーを考えるべきなのだろうか。
 
上のようにいろんな例を出してみると、どうも意識と無意識という定義そのものがはっきりとしておらず、人によってカバーする範囲が違っているように感じる。たとえばフロイトは意識にのぼらない人間のドロドロとした負の心の部分を潜在意識(sub-consciousness)と名付けた。潜在意識という言い方は、意識がまず頂点にあって人間を支配しており、その配下に潜在している意識という意味であろうが、最近は無意識の方が意識を支配しているという説が多く、意識に従属しているという意味での潜在意識という言葉はあまり使われない。

最近では無意識の範囲はフロイトの言ったような人間の負の心の部分ばかりでなく、先ほどの心臓や、呼吸などの自律神経系で行われているものや、車の運転やサッカーの試合など通常の生活の中で考えずに行動している部分も含まれている。それからいうと自分が気付いているもの(アウェアネス)だけを意識と呼んで、それ以外のものを全て無意識と呼んでいるような気がする。

また慶応大学の前野隆司教授のように、分類としてアウェアネスという意味での意識と、自分が自分であるということをフィードバックしている自意識を区別して、無意識、意識、自意識という3つのカテゴリーに分類する人もいる。この場合自意識の主体を<私>という記号で表し、覚醒による意識の主体を「私」、無意識と肉体を含めたものを「自分」という記号で表し、それぞれを区別している。

 

意識はリードオンリーか?

前述の前野(以後人名は敬称略名字のみ)によると意識は人間のエピソード記憶と深く結びついており、進化の過程で人類が獲得したエピソード記憶、つまり過去の事件を時系列に覚えておく記憶の副産物として意識が芽生えたと言っている。そしてエピソード記憶が発達するまでは、人類は無意識状態であったと。この意識のない状態で人類がどう暮らしていたかというのを想像するのはよほどの想像力が必要だ。人類から意識を取り除いた状態は、どんな感じでどのように表現すればよいのだろう。皆さんも想像してみてください。そして前野によると、こうやって生まれた意識は、実際は無意識である「自分」が行ったことの情報の内、意識である「私」が知る必要のない情報を大量に消し去ったダイジェスト版を見せられているというのだ。つまり、意識には自由意思というものがなく、すでに終わった行動をアクロバット・リーダーのようなリードオンリーのダイジェスト版で見せられているということになる。このことは、今まで意識があってこそ、自分の自由な意思を行使できると思ってきた多くの人々にショックを与えた。

これに対してアメリカの生理学者であるベンジャミン・リベットは、無意識が意識を支配しているという主張は前野と同じであるが、意識は完全なリードオンリーではなく、無意識に対して唯一行使できるのが拒否権であり、無意識の命令を意識によって拒否だけはできるというのだ。たとえば、かわいい女の子のお尻を触りたいという無意識の欲望があっても、それを実行しないのは意識が持つ拒否権であるという。そして、飲酒やドラッグなどで、意識が薄れるとその拒否権が発令できなくなり、セクハラで逮捕されるということになる。この意識に自由はあるか、あるとしたらどこまであるのかというのは、研究者の間でも意見が分かれており、サイエンス・フィクションのネタになるところである。

 

意識は0.5秒遅れる

前述のリベットが行った有名な実験に、指曲げ実験による意識の時間の遅れがある。どういう実験かというと、ある人が自分の意思で指を曲げようとしたとき、指を曲げようと決意した意識の時点を0秒とすると、実際に指が曲がるのはその0.2秒後であるが、事前に考えて指を曲げようとしたときは、意識の約0.8秒前、発作的に指を曲げた場合でも決意の意識の約0.3秒前に脳の中で準備電位というのが起こることが確認されたというものである。準備電位というのは大雑把に言えば、指を曲げるための無意識のスイッチがスタートした時間である。つまり意識するより前にすでに無意識でスイッチが入っていたということになり、このことが先述した、意識には自由意思というものがないのではないか、ただのリードオンリーではないかという結論に導かれるのだ。ただリベットの場合は、決意の意識が生まれた時点と実際の動きの間に0.2秒の差があり、その間に拒否権を発令できると主張している。

意識が遅れることを裏付けるリベットの別の実験がある。むき出しの人間の脳に電極で刺激を与えて「皮膚に触れられた」というような感覚が生じる時間を計ったものだ。千分の1秒以下のパルスを機関銃のように短い時間で繰り返して人間の脳にあてた。するとそのパルスは0.5秒以上続けないと被験者が意識できないことがわかった。つまり0.5秒未満だと何も感じないのだ。この0.5秒という時間は、先述の指を曲げる実験の準備電位発生から指を動かすまでの時間と対応する。今後もこの0.5秒という時間が登場するので記憶願いたい。

次に脳ではなくて手の皮膚を針で刺激するという実験をした。この場合も物理的に刺激してから被験者の意識にのぼるまでの時間は約0.5秒かかった。ただし手の皮膚は0.02秒後には反応していた。分かり易く言えば針をさされた手は条件反射ですぐにピクっと動いたが、「いたっ!」と言ったのは0.5秒後ということになる。

そしてリベットは上の二つの実験を右手と左手に分けて同時にテストした。右手の刺激の部分をそれに相当する脳の部位に直接電極をあて、左手の刺激に対しては、針で左手の皮膚を刺激して、被験者にどちらの刺激を早く感じたかたずねた。事前の予想では、もし同時に刺激したら、どちらも0.5秒後に同時に感じるはずであった。ところが同時に刺激すると、被験者は針で左手を刺激する方が圧倒的に早かったと言った。そして今度は左手の針の方の刺激を右手より0.4秒遅らせたが、それでも左手の方の刺激が先と言った。

このことでリベットが推測したのは、日常経験する触感などの刺激に対する意識は0.5秒遅れて意識されるにもかかわらず、脳の中でその遅れがなかったかのように時間が繰り上げられていて、被験者にとっては刺激と同時に意識されているように感じることである。つまり被験者ではない第三者である研究者や観察者が時計で計った物理的時間と、被験者の主観的時間は異なるという結論である。なにか相対性理論を聞いているような話だが、この場合はドップラー効果ではなく、単に脳が自分自身を都合のいいように騙しているということだ。この0.5秒の脳のトリックを簡単なテストをして見破る方法はないだろうか?0.5秒というとかなり長い時間で、オリンピック選手なら5mも走れる時間だ。

たとえば、脚気の検査で足がピクッと上に上がるのは、医者が膝の下辺りをポンと叩いたときであるが、叩かれたという意識がのぼった時には、すでに足が上がっているということになる。ただじっと足を見ていたら叩かれた触角情報と目からの視覚情報が混ざってしまい正しい判断ができないので、目をつむって足に刺激を感じたらすぐに目を開けて足がどこにあるかみてみたらどうだろう。ただ目からの情報も意識にのぼるために0.5秒かかるが、その時に見た情報はそのままで0.5秒遅れて意識されるだけなので問題ないように思える。疑わしければ、カメラを用意して、足に刺激を感じた瞬間にシャッターを切って足の写真を撮ってみてはどうだろう。これ以外にも工夫次第でこの0.5秒のトリックを利用した実験が可能と考えられる。皆さんも考えてください。


0.5秒はなんのため?

茂木健一郎著の「脳とクオリア」に0.5秒の謎を解くヒントがあった。人間の脳には数千億といわれるニューロン(脳神経細胞)がある。ニューロンの一つ一つの働きは非常に単純で、スイッチのオン・オフのように活動電位を発生させ、その電気信号をタコの足のように広がった樹状突起を通じて周りのニューロンに伝えている。そしてその電気信号を受け取ったニューロンはさらに周りのニューロンに伝えるという基本的にはそれだけのことなのだが、これが数千億個も集まると、人間のように考え、記憶を持ち、泣いたり笑ったりという感情を持ち、さらに今までみたこともなかった発明までしてしまうことになる。

活動電位がプラスの時を比ゆ的に発火と呼んでいる。そして最初の発火が引き金になり、次々と連動して繋がったニューロンに発火していく。ただあるニューロンに繋がっているすべてのニューロンが発火する訳ではなく、発火するニューロンと、発火させない抑制ニューロンというものがあり、それらが蜘蛛の巣のように絡み合いながらある種の発火パターンを作る。どのニューロンが最終的に連続発火したのかを1つ1つリストアップすることができたら、それがそのまま人間や動物の行動パターンであるという見解である。

もう少し順序立ててまとめると、もし数千億あるニューロンに番号を振ることができたら、ある人間の行動や思索において、どのニューロンが連続発火に関係しているかを調べて、それらのニューロン番号をリストアップしてみる。行動や思索に応じて発火するニューロンの合計数は異なるだろうし、もちろん発火するニューロン番号も違ってくる。このリストアップされた1つの発火グループをクラスターと呼んでいる。たとえばクラスター1は、赤いリンゴを見たときで、どの番号のニューロンが入っているか、クラスター2は、桜が散るのを見た時、どのようなニューロンの番号のものがはいっているか、考えられる限りの行動、思索とそのクラスターのパターンを全て書き出してみる。なにかかつての全ての遺伝子を調べるゲノム計画のような感じだ。そしてクラスター・パターンは、全人類、全動物に共通の行動、思索パターンであると茂木は考えている。つまりクラスター・パターンを脳のスキャナーで読み取れたら、その人が何をして、何を考えているか分かると言うのだ。

そしてこの1つのクラスター・パターンを形造るのには時間がかかる。つまり最初の発火から最後のニューロンの発火が終わる時間は、光のように一瞬ではなく、1秒近くかかることもある。そこで非常に興味深いことであるが、1つのクラスターが完成するまで0.5秒以上かかったものが意識に上ると言われている。逆にクラスター完成が0.5秒以下であれば意識に上らない。これは先述したリベットがむき出しの脳に電極をあてて、0.5秒以上刺激を与えた場合にのみ被験者が刺激を感じたということと完全に符合している。つまり0.5秒という時間は、無意識に入力したものを脳が処理をして、<自分>に必要のない情報を捨て、分かり易い結果を出すのにかかる時間ということである。
 
つづく

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